生涯現役の履歴
これからの東京に生きていく僕たちは、生活が成り立つほどの年金を受け取ることは期待はできない。期待するべきでもない。
僕たちの大部分にとっては、「いずれは一戸建ての持ち家」ってのも難しい。それを望むべきでもない。多くは最後まで家賃を払いながら、賃貸マンションを「終の住処」にすることになるだろう。
僕たちの多くは、自分たちの子供に養ってもらうということも難しくなるだろう。養ってもらうことを期待するべきでもない。それは、他人を理不尽に束縛することになるのだから。
そういう時代の変化は、もう仕方がない。
だから、僕たちの大部分には、仕事を引退して「老後」を送ることはできない。だから、年をとっても、体力が落ちても、大きな問題なく出来るような仕事を、僕たちは必要としている。
雇用の受け皿として、二次産業や建設にテコ入れするような政策は、今後は意味が無くなると思う。そういった仕事は、年をとっても無理なく続けられる仕事とは違うから。
たぶん、自動車や家電を作る仕事は、本当の年寄りには難しい。政治家は年をとってもできるらしいが、あまり、普通の人がつく職業ではない。そう考えると、生涯現役というのは、老人が会社に勤め続けるというのとはちがうとおもう。
料理や接客や、様々な職人芸や、それから、もし幾許かの才能があるなら、デザインや音楽や様々な著作活動や、そういうもので僅かなお金をもらい、あるいは貰えず、質素に生活する人たちが増えるんじゃないかな。
経済成長が見込めなくなった、借金ばかりある国の年寄りの生き方っていうのは、そういうものだと思う。
たぶん、日本の未来はそういう社会だ。これは、別に暗くなるような話じゃない。たとえばイタリア人は、かなり昔からこういう社会に生きているけれど、でも、連中は日本人より明るいじゃないか。
貧乏で体力もないくせに、パンを焼いたり、女の子を口説いたりして喜んでいるイタリア人のバカなじいさんみたいな、ああいう明るさが欲しいな、と思う。