医師を愚鈍にする研修の履歴
構造と診断(岩田健太郎著)p27-8より
なるほどと思うところが多かったので、引用しておく。
伝統的な大学病院の初期研修医は、その命令遂行能力が、評価のすべてであった(いまでも、多くの医局ではそうである)。上級医の命令を遅滞なく遂行できる。これこそが優秀さの証である。
(中略)
このような研修医に必要なのは、「飲み込む力」だ。空気を読み、状況を把握し、相手の言葉をそのまま飲み込む。言われたことをそのままに遂行する能力。正確で回転の速い頭脳と如才無さが必要になる。指導医が何を求めているか、それを察知し、推敲する能力だけが重要になる。察知する能力を欠いた研修医(いわゆる、KYな研修医)はどうなるか。その場合は、あらゆる想定質問に対応できるよう、研修医は患者を「検査漬け」にする。どんな質問が来るか察知できないから、最初からどの質問が来てもよいようにしておけ、というわけだ。
(中略)
これこそが、初等教育から高等教育にいたるまで、日本の教育を規定しているエートスである。飲み込むこと、咀嚼せずに飲み込み、そのままで吐き出すこと。これこそが優秀な生徒の証である。
(中略)
だから、研修医にはアセスメント能力はいらない。アセスメントすることすら必要ない。
(中略)
こうして2年の初期研修を終え、同じように後期研修を過ごし、6,7年経つと一人の藪医ができあがる。可塑性は年々失われ、10年も経つと大抵の場合、もう取り返しがつかない。手技がうまく、仕事が速い。経験した事象は反復できる。しかし進歩がない。知恵がない。学びもない。情操教育的にも暗い影が落とされ、他人の見解に耳を傾ける可能性も低い。「ぼくは前からこうやっていたんです」の一点張りになってしまうからだ。それ以外に判断の根拠を知らないからだ。一人の愚鈍な指導医の完成である。
愚鈍、バカ、アホ、どんな言葉を使ってもよいけれど、ここでぼくの言う愚鈍という言葉はしたがって、知識の多寡をもって判断される基準ではない。百科事典的な博覧強記を誇っていてもバカ、ということはあるものなのだ。問題なのは知識の多寡ではない。自分が何を知っていて、そして何を知らないか、その分水嶺を見据えることができるか、がその基準である。自分が知らないこと。それを教えてくれるのは他者だけである。他者の言葉や振る舞いだけが、自分の知らない地平を教えてくれる。だから、他人の言葉に一切耳を貸さない頑迷な性格の持ち主は自然「バカ」ということになる。正確と知性は案外、相関しているのである。