受動意識仮説の履歴

人の「意識」とは、心の中心にあってすべてをコントロールしているものではなく、人の心の「無意識」の部分がやったことを、錯覚のように、あとで把握するための装置に過ぎない。自分で決断したと思っていた充実した意思決定も、自然の美しさや幸せを実感するかけがえのない「意識」の働きも、みなあとで感じている錯覚に過ぎない。そしてその目的は、エピソードを記憶するためである。


な、なだってー!!

それにしてもこの考え方、仏教っぽい。