政治の限界の履歴
政治の限界というか、政府の限界というか、日本の政府に決められないこと、たとえ決めても、決めた通りにはできないこと、というのは、結構沢山ある。
たとえば、普天間の基地移設だったり、円高対策だったり。
この種の、「政府に決められないこと」は、近年、増え続けているように思う。
そうなっている原因は、
- 国際化、ボーダーレス化の進展で、一国の政府の決定が他国に与える影響が大きくなっていること(政府の決定のうち、「内政」がどこまでか、曖昧になってきている)。結果、他国政府への相談なしには決められない問題が増えている。たとえば、日銀の政策金利の変更は、本当に「内政問題」だろうか?
- たとえ、完全に国内の問題であっても、政府は、多くの団体に相談しなくては中々物事を決められなくなっている。なぜなら、政府の活動は、これまで以上に多くの民間の団体の協力がなくてはなりたたなくなっているから。
- 財政状態が悪くなったため、何かを決めても遂行するお金が無い。たとえば、後期高齢者医療制度など。
- そもそも、政府が決めても、それが実現可能かどうか、判断できる専門知識を持ったスタッフが霞ヶ関にいないことが多い。たとえば、昨年のインフルエンザ対策など。
というわけで、「政府ができないこと」は年々増加している。
昨年くらいから何度のきいたスローガンに、政治主導なんていうのがあるけれど、仮に、最大限に政治主導が実現したとしても、しょせん、政治には、政府をコントロールすることしか出来ないわけだから、「政府ができないこと」は、「政治ができないこと」でもある。
民主党政権成立後、実は、日本政府にできないことは案外多かったということがはっきりした。たぶん、これは、民主党の無能さというよりも、元々、自民党の政府にだって、これらの問題について決める力は無かったんだと思う。自分たちでは決められない問題についても、自分たちが決めたフリをしてコトを運ぶことで、自分たちに決定権がないことを隠してきたに過ぎないんだと思う。あるいは、自民党も官僚組織も、「自分たちには決められないことの存在」に目をつぶってきたのかもしれない。
「どのみち政府には決められないこと」がこれほど多いのであれば、国政選挙の公約にも、形式的な意味しかないことになる。「権限がない組織」のリーダーの約束なんかに意味はないから。皮肉なことではあるけれど、政権交代の結果、「政策を選ぶ選挙」から「人物を選ぶ選挙」へと回帰することになるかもしれない。
「政治に出来ないこと」が明らかになったとしても、その「不可能事」を不可能だと納得出来る人は少ないだろうから、政府の仕事は、不可能なことの実現を祈る「祈祷政治」のような要素が増えてくるかもしれない。