自分で曇らした眼
「弱者の為に」と叫びながら行進する団体に所属する事を自慢げに話す人間に寒気を覚えてから、自分で「それは違う」と言い聞かせてきた。特に途上国開発の分野ではこの考え方は致命傷になる。それ以上に心底気持ち悪い。そこでアンポンタンな俺はこんな事を考えた。自分の動機の根源は絶対に外におかない。それは自分の眼を曇らせるもとであると。
そのときの俺は「もっと真剣に彼らの事考えろよ。そしたら何か違うことするだろ。例えばさー、」って思うんじゃなくて「俺はこいつとは違う。誰かの為にではなくて自分の為にする事が結果としてそいつらのためになるってのが理想だ。」って思った。というかそういう風に思考を制限した。あまりにも気持ち悪かったから「誰かの為に」っていうものからできるだけ遠ざかりたかったのだ。本当はこの二つが合わさって一個のモチベーションになるはずなのに。
自分の動機の根源を外におかない者は、ある面では突破力、持久力ともに優れたものを発揮する。そこには自分以外に自分の歩みを妨げるものはなく、ものすごくシビアな眼で自分の行動を分析しフィードバックしていける。個人スポーツ、芸術や学術的な研究などの分野ではこういった人達が多いのではないだろうか。
俺はというと、半分そうで、半分ちがう。
ってことにさっき気づいた。
色々あって、最近までは「他人がなんだよ」ってずっと思ってた。正直自分の事以外あんまし興味なかった。もっとぶっちゃけると、自分以外を馬鹿にしてた時期もあった。さらにそれに輪をかけて「動機の根源は自分の外におかない」っていうのを実践してた。結果、まわりにあんまし人がいた記憶がない。
でもここ一年くらいで本当に尊敬できる人に何人か会って、少しずつ語るようになってきて、他の人と話す事って楽しいなって思えるようになってきた。
んで今日コンサルと開発の一番大事な繋がりを考えてた時にぽんっと
「あー、やっぱり俺は人の喜んでる姿を見るのすきだな。」
って素直に思えた。
ここを今まで必死に見ないようにしてたんだなって事も同時に気づいた。
社会的正義を盾に適当な事して自己満足してるだけの人間に対する嫌悪感が
そういう人達と同じに見られたくないという無駄なプライドが
なんか大事なもんを見えなくしてたようです。
はー。
すっきりした。
コメント
コメントできません (ログインするとコメントできます)
私もなぜかボランティアやってましたって言うのに抵抗があるんだよね。
私は自分の勉強の為に新潟に行ってた訳なので、
別にほめられることじゃないよな。って思う。
でも、お金をもらわずに誰かを助けることが「ボランティア」っていうのならこれからもやり続けるだろうなと思う。
そこで私はお金じゃない何かをそこでいつも貰ってるんだけどね。
>さとこ
でも「俺は今こういうネットサービスの勉強をしてる」っていうのには抵抗ないんじゃない?
俺は競争好きだし、本読むのが好きだし、限界に挑んで新しい地平を見るのが好きだ。誰かが俺のした事で笑ってくれるっていうのもここらへんと同列のモチベーションなんだと思う。
ただ、やるからにはシビアに何が相手を喜ばせるのかとことん考えたい。それはその瞬間に相手がうれしくなるだけじゃなくて、長い視点で見た時に相手が幸せそうにやっていけるかどうかを真剣に問う事だと思う。
それがコンサルだと思うんだよな。