一夫多妻の履歴
一夫多妻社会から、現代日本の問題点を考察してみた。
言わずもがな、イスラム教国では、一人の夫が四人の妻を娶ることができる。
現在の日本(豊かで平和な国)から見れば、なんて男尊女卑社会なのだろうと見えてしまうが、実は、男尊女卑などが問題にならない過酷な社会だという点を理解しておく必要がある。
過酷な社会
日々の生活が死と隣り合わせの社会。
過酷な自然
イスラム教自体、中東・アラブという砂漠で育まれた宗教である。過酷な自然の中で、食料・水がなければ死ぬ。
武力闘争社会
人口に必要な食料よりも、実際生産・捕獲できる食料が少ない社会では、武力闘争が起こる。これは日本の戦国時代やありとあらゆる戦争の根本原因である。負ければ死ぬ。
知力よりも生存能力
過酷な社会では、知力よりも体力・生存能力が必要になる。体力の必要性が増すと、当然、男性優位の社会になる。生存能力の高い男性が妻を娶り家族を持ち、子孫を繁栄させることができる。これは戦国時代や戦前の日本も同じである(一方で、平和の長かった平安時代、江戸時代、現代は、女性が活躍できる社会になっている)。
一夫多妻は男尊女卑か?
- ある意味YES。「男女平等」以前に、過酷な社会で「生きる道」を選択しなければならない。
- ある意味NO。「一夫多妻」ということは、たくさんの妻を娶る男がいるということは、妻を娶ることのできない男もいるということ。弱肉強食の社会であり、男尊男卑の社会と言うこともできる。
一夫多妻の意義
強い男もいれば、弱い男もいる。弱い男は、妻を幸せにする以前に、生かすことすらできない。一緒に生きる能力のない男は、妻を娶る権利も資格もない。一方で、たくさんの人を食べさせることのできる男は、たくさんの妻を娶ることができる。いや、義務ですらある。
一夫多妻社会では、好きであるとか幸せにするとかという以前に、生きるか死ぬかが問題である。生きる能力の高い男がたくさんの妻を娶り、生きる能力の低い男は妻を娶ることができない。
女は、結婚することにより生き残れ、結婚できずに父親が死ねば(家族から男がいなくなれば)、死ぬことになる。だからこそ、まだ余裕のある男は、人間社会から一人でも多くの女を守るため、複数の妻を娶る義務がある。
(余談になるが、平安貴族を描いた源氏物語では、貴族と言えども家族から男がいなくなる急速に没落する姿が描かれている。光源氏は遊び人であるが、没落しそうな貴族女性を救うという大儀も果たしている。)
一夫多妻制というのは、社会全体で人間が生き残るための知恵である。
現在でもイスラム社会がそうであり、戦前の日本もそうであった。事実、戦前の日本は男女の人口比以上に、婚姻率の差が高かった。つまり未婚男性(正式結婚、内縁問わず)が多かった社会である。
一夫多妻から読み取る社会の考察
我々がこの事実(戦前日本の男性未婚率の高さ)に気づきにくいのは、二つの理由がある。
一つは、そのような男性の子孫は一人もいないこと(我々の先祖はみな子孫を残すことができた成功者たちのみ)、もう一つの理由は、死を意識しなくても済む社会ができたからである。
死を意識しなくてもよくなったために、生きることに賢明にならなくてもよくなり、一夫多妻は不義となり、結婚は生きるためではなく恋愛の延長となり、結婚しないことが自由な選択肢となる社会となった。
新しい社会の構築へ
婚姻率の低下や少子化という現代社会の問題は、古い社会(死と隣り合わせの社会)が崩壊したにも関わらず、自由であり持続できる新しい社会をまだ構築できていないために起きている現象と見ることができる。
果たして我々人類は、自由であり持続できる新しい社会を構築することができるのだろうか?今まさに、そのことが問われているのではないだろうか?