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渡瀬は茶の間を見廻わした

 渡瀬は茶の間を見廻わした。そして真剣な準備を仮想的に目論見ながら、
「今日はお母さんはお留守ですか」
 と尋ねてみた。この言葉はおぬいさんを(もし彼女があたり前の事を知った女なら)怖れさすに十分だと同時に、反抗か屈服かの覚悟を強いるに十分な言葉なはずだ。
 ところがおぬいさんはその言葉にすら怖れる様子は見せなかった。そして自分の教師を頼みきっているように、
「診察に出かけました……よろしく申していました」
 と他意なく母の留守を披露した。赤子の手をねじり上げることができようか。渡瀬はまた腰を折られてしょうことなしに机の上にある読本を取り上げて、いじくりまわした。
 けれども渡瀬はどうしてもそのまま引き下る気にはなれなかった。彼は無恥らしい眼を挙げておぬいさんを見上げ見おろした。その時、ふと考えついたのは、おぬいさんがすでに意中の人を持っているなということだった。恋に酔っている女性ほど、他の男に対して無慾に見えるものはない。おぬいさんの無邪気らしさに欺かれかけたのはあまりばからしいことだった。十九の女に恋がない……彼は何を考えていたのだろうと思った。
葛西 歯科 ナマケモノのワイン色の憂鬱

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