フランス革命
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背景
- ルソーやモンテスキューなどの啓蒙思想により自由・平等への理解が進んだ。国王の国家ではなく、市民による社会・市民による国家という概念が普及した。
- 放漫財政、アメリカ独立戦争支援などによる財政悪化
- アイスランドのラキ火山噴火による凶作
フランス革命の掲げた原理
- 自由
- 平等
- 友愛
経過
1789年~1791年
- 1789年6月17日 第三身分(ブルジョワジー)を中心に「国民議会」を発足させる。
- 1789年6月20日 テニスコートの誓い。
- 1789年7月11日 国民に人気のあったネッケルの罷免。
- 1789年7月14日 パスティーユ襲撃
- 1789年8月26日 人権宣言
- 1789年10月5日 ヴェルサイユ行進、ルイ16世、人権宣言承認
- 1791年4月2日 国民議会と国王のパイプだったミラボー死去
1791年~1792年(立憲君主制へ)
- 1791年6月20日 ルイ16世、パリからの逃亡を図り、国民に見つかり、パリに連れ戻される(ヴァレンヌ事件)。これにより国王の権威が失墜する。
- 1791年9月3日 1791年憲法成立、立憲君主制へ
- 1791年10月1日 憲法に則り、立法議会発足。立憲君主派と共和派の対立
- 1792年4月20日 オーストリアへ宣戦布告
1792年(共和制へ)
- 1792年8月10日 ルイ16世、タンブル塔に幽閉される。
- 1792年9月21日 立法議会廃止・普通選挙実施を経て、国民公会発足。共和制樹立
1793年~1794年(ジャコバン派による恐怖政治)
- 1793年1月21日 革命裁判の有罪判決を受け、ルイ16世、ギロチンによって処刑。イギリスを中心に第一次対仏大同盟結成。
- 1793年6月24日 1793年憲法
- 1793年10月16日 王妃マリー・アントワネット処刑
- 1793年11月~1794年6月 粛清の嵐。ロラン夫人、エベール、ダントンらジロンド派粛清。2000人以上が断頭台へ。
- 1794年7月27日 テルミドールのクーデター、翌28日、ロベスピエールら処刑
1795年~1799年(総裁政府:腐敗の時代)
- 1795年10月5日 ナポレオン、ヴァンデミエールの反乱を鎮圧
- 1795年10月27日 バラスらにより、総裁政府樹立、腐敗へ。
1799年~(ナポレオン独裁)
- 1799年11月9日 ブリュメールのクーデター、ナポレオン、第一執政就任
- 1802年8月2日 ナポレオン、終身執政
- 1804年12月2日 ナポレオン、皇帝に就く、共和制終焉。
対立軸
- 王党派と共和派の対立(1792年~1793年、ルイ16世処刑)
- 保守派と急進派(1793年~1794年、ジロンド派粛清、ジャコバン派処刑)
- 民衆と軍隊(1795年、ヴァンデミエールの反乱鎮圧)
フランス革命によって普及したもの
- 自由・平等・友愛の理念
- 人権
- メートル法
トリビア
- 実は暗愚でなかったルイ16世。
- 実は人道目的に導入されたギロチン。それまでの八つ裂きの刑に比べると、即死でき、痛みを伴わない。
- ギロチンの刃が斜めなのは、ルイ16世の発案だった。
- 女性たちが活躍していた。後に女性は「自由」のシンボルになった。
- ベルサイユのバラとの相関
- 貴族は不倫三昧だった。
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