日本は侵略国家であったのかの履歴

田母神俊雄(防衛省航空幕僚長 空将)

 アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日国内に駐留している。これをアメリカによる日侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。

 日は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。

 この日軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936 年の第2 次国共合作によりコミン
テルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。

 我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937 年8 月15 日、日の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。

 1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日軍がやったとは断定できなくなった。「マオ( 誰も知らなかった毛沢東)( ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論(黄文雄、ワック出版)」及び「日よ、「歴史力」を磨け(櫻井よしこ編、文藝春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。

 日中戦争の開始直前の1937 年7 月7 日の廬溝橋事件についても、これまで日中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争(岩間弘、岩間書店)」。もし日が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日もやっていいということにはならないが、日だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。

 我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。

 満州帝國は、成立当初の1932 年1 月には3 千万人の人口であったが、毎年100 万人以上も人口が増え続け、1945 年の終戦時には5 千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日統治下の35 年間で1 千3 百万人の人口が2 千5 百万人と約2 倍に増えている「朝鮮総督府統計年鑑」。日統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日政府と日軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。

 我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また 1924 年には朝鮮に京城帝国大学、1928 年には台湾に台北帝国大学を設立した。日政府は明治維新以降9つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6 番目、台北帝国大学は7 番目に造られた。

 その後8 番目が1931 年の大阪帝国大学、9 番目が1939 年の名古屋帝国大学という順である。なんと日政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また日政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊(ホンサイク)という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校2 6期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその1期後輩には金(キン)錫源(ソグォン)大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。日兵約1千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金賜勲章を頂いている。もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。1期後輩で蒋介石の参謀で何応欽(カオウキン)もいる。

 
 李王朝の最後の殿下である李垠(イウン)殿下も陸軍士官学校の2 9期の卒業生である。李垠(イウン)殿下は日に対する人質のような形で1 0歳の時に日に来られることになった。しかし日政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠殿下のお妃となられたのが日の梨宮方子(まさこ)妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。因みに宮内省はお二人のために 1930 年に新居を建設した。現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀(フギ)殿下の弟君である溥傑殿下のもとに嫁がれたのは、日の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。

 これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。

 一方日は第2次大戦前から5族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである。第1次大戦後のパリ講和会議において、日が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば当時日が主張していたとおりの世界になっている。

 時間は遡るが、清国は1900 年の義和団事件の事後処理を迫られ1901 年に我が国を含む11 カ国との間で義和団最終議定書を締結した。その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2 600 名の兵を置いた「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。また1915 年には袁世凱政府との4 ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21 箇条の要求について合意した。これを日中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4 年後の1919 年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日の言い分を支持してくれたのである「日史から見た日人・昭和編(渡部昇一、祥伝社)」。また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。1901 年から置かれることになった北京の日軍は、36 年後の廬溝橋事件の時でさえ5600 名にしかなっていない「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基方針であり、それは今も昔も変わらない。

 さて日中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し3 百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局( N S A )のホームページに載っている。膨大な文書であるが、月刊正論平成18 年5 月号に青山学院大学の福井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは1940 年から1948 年までの8年間これをモニターしていた。当時ソ連は1 回限りの暗号書を使用していたためアメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、日米戦争の最中である1943 年から解読作業を開始した。そしてなんと37 年もかかって、レーガン政権が出来る直前の1980 年に至って解読作業を終えたというから驚きである。しかし当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し 1995 年に機密が解除され一般に公開されることになった。これによれば1933 年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には3 百人のコミンテルンのスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2の財務次官ハリー・ホワイトであった。ハリー・ホワイトは日に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。

 当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け、戦闘機100 機からなるフライングタイガースを派遣するなど、日と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ1ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。

 ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日に第1 撃を引かせる必要があった。日はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。さて日米戦争は避けることが出来たのだろうか。

 日がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし一時的に戦争を避けることが出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第2, 第3 の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。

 さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日の力によるものである。もし日があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ。

 一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日国民の命を奪った。亡くなった人はみんな死にだったと言っているようなものである。

 しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難である。日米安保条約に基づきアメリカは日の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日が返してくれと言ってもそう簡単には返ってこない。ロシアとの関係でも北方四島は6 0 年以上不法に占拠されたままである。竹島も韓国の実効支配が続いている。

 東京裁判はあの戦争の責任を全て日に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63 年を経てもなお日人を惑わせている。日の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日のアメリカ化が加速する。日経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日国民は20年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも
親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。

 自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日の評価は高いのだ。そして日軍に直接接していた人たちの多くは日軍に高い評価を与え、日軍を直接見ていない人たちが日軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。

 日というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。