2月26日の履歴
2008年
昔のサイトをサルベージ。こんなん書いてたんだ・・・子供は信じるから読んじゃダメ。
■■武人名鑑1■■
赤い彗星のシャア
2000.2.20// Gundams// TOP_PAGE
シャア・アズナブルと呼ばれる男の出自は当時誰にも分からなかった。
かような男が士官学校に入学できることはつい10年ほど前までには考えられなかったことである。しかし、当時のジオン公国ではザビ家の独裁が進み、これは軍において最も顕著であった。軍をもって政権を掌握していたザビ朝ならば当然である。
このような土壌が、出自の知れない男、この項の主人公であるシャア・アズナブルを士官学校に入学させることを許したのであった。
シャアはガルマ・ザビのたっての願いで士官学校に入学し、しかも異装を許されることとなった。
これは当時の軍隊の中では有名になったが、報道統制の中にあって人民には全く知られていない。後に発表になったシャアの経歴もガルマ・ザビの「創作」であるという説が一般的となっている。
軍の(すなわち士官学校の)上層部にいる兄達兄弟やデギン・ザビもこの件は承知の案件であったが、当時のザビ朝は男色に対して寛容であったたことと、当のガルマ・ザビが当時の公王デギン・ザビに「溺愛」されていたため、この件は黙認された。しかしながら、この件は軍隊の中で格好のゴシップとなり、硬骨漢の武人、ドズル・ザビにはこれを容認することができなくなっていた。
これにより、士官学校卒業と同時にガルマ・ザビの願いとは別にドズル・ザビはシャアを自分の部下として引き取ってしまう。若い二人の生木を裂いたのだ。ガルマはこれで一時半狂乱になったというが、姉のキシリア・ザビの説得もあり、シャアの厚遇を条件についにはこれを認めざるを得なかった。
のちの1週間戦争によって、ガルマの願いによりザクを与えられたシャアは武勲を立て、一気に少佐の地位まで上り詰める。しかしこれも「尻の穴一つで3階級特進」との揶揄を招くだけであった。
上層部はシャアのゴシップは隠しきれないと判断、逆にシャアを軍の宣伝に活用することにする。赤い彗星のシャア・アズナブル、ルウムでの勇者、通常の3倍のスピードでザクを駆るパイロットとして大々的に軍メディアに登場したシャアは敵味方を問わず広く知られるようになる。これにより、シャアに関するゴシップは息を潜めたかに見えたが、ジオン軍内部には長くひそかに残ることとなる。
のちのシャアの功績はほとんどない。
直後の木馬追撃戦(戦術上のミスも多々指摘されている)で最大の庇護者であるガルマを失い、一旦は軍の表舞台から消えるがガルマを偲んでか「弟の恋人」であるシャアはのちにキシリア・ザビに登用されることとなる。ガルマの願いなくしてシャアを用いる理由はもはやドズルにもなかったのである。
のちにキシリア配下として木馬追撃戦を続行、ザンジバルで突撃を敢行するなど行うが、戦果無し。マ・クベはじめキシリア配下の将でありながら、コンスコンをはじめドズル配下の将が良く使う突撃戦法を使うシャアは、キシリアの兵には異質の存在で評判は悪く、以前にも増して兵の求心力は下がっていった。この当時にあってはシャアは兵にとってザビ家の飼い猫という評価が広く出まわっており、シャアは自分の配下の船のMA,MSの搭載数さえ知らなかったといわれている。
のちに一旦軍の一線を退き、ニュータイプ実験に携わるがこれの実用化に伴い再び戦線に復帰する。しかしキシリア肝いりの研究所ではともかく、前線での指揮官としてのシャアに対する兵の士気は非常に低かった。
シャアの最後の戦場であるア・バオア・クーにおいても彼の乗機は整備兵に「うっかりと」「後回しに」されたため、彼はゲルググでは出陣できず、軍の記録にまだ上らない未完成のMSで出陣せざるを得なかったという。
ア・バオア・クーにおいて、シャアはMIA(Missig in Action)と記録され、生死不明である。出自も、没年も不明なシャアが最も輝いていたのは戦線の後方で「赤い彗星のシャア」として微笑みつつ敬礼をするカメラのレンズの前だったのかもしれない。
■■武人名鑑2■■
黒い3連星のガイア
2000.2.28
0 ガイアの戦闘プログラム(ジェットストリームアタック)とは何であったか
ガイアはMS教導大隊で教鞭をとっていたが、その指導内容は特異なものであったという。ここでは彼がジェットストリームアタックと呼んだ独特の戦闘プログラムについて述べてみたい。なお、文中では当時の広報フイルムにあるジェットストリームアタックという呼称は使用せず、教本に記述のあるガイア・プログラムと呼称することとする。
誘導兵器がミノフスキー粒子によって無力化した現在にあっては、出来る限り敵に接近することが重要であることは全ての戦術家の共通見解であるが、接近するまでにいかに被弾を避けるかについてガイアは独特の戦術を採用した。
ガイア以前、そして以後もMSはケッテを組み、互いにサポートしつつ敵にあたることが常識である。しかしながらガイアが活躍したMS教導大隊発足時にのみ特有の事情があった。すなわち、いうまでもなく当時はMSを保有する国家はジオン公国のみであり、当時のMS部隊は実質上対艦戦闘の為のみに存在した。
ミノフスキー粒子散布下では戦闘は有視界戦闘となるが、無重力戦闘の相対速度は理論上ゼロから無限大まで任意である。しかしながら有視界戦闘で1回以上攻撃の機会を得るためにはある程度以下の相対速度、戦闘可能相対速度まで「相対的に減速する」必要がある。
大きな相対速度を人間の反応速度以下に急減速する為の姿勢変更をAMBACにより得たMSは会敵速度が従来型戦闘機のそれを大きく上回り、その火力も相まって艦艇に非常な脅威となった。これに対し艦艇はその護衛艦載機と弾幕にて制宙圏と制宙相対速度を維持する戦術をとっていた。(これは現在に於いても不変の戦術である。)
一般のMS戦術はこの制宙圏と制宙相対速度を確保したのち、敵艦に接近するものであるが、ガイアはこれを無視した。
彼は通常の戦闘相対速度を越えて会敵し敵制宙圏をすり抜けて急制動する戦術を提案した。これに対しMSにはるかに及ばない姿勢制御能力しかもたない戦闘機ではこれを迎撃することは不可能である。
当時のガイアにとって好運であったことはこの戦術を実行出来るパイロットが当時MS教導大隊に複数人いたことである。ガイアプログラムは一時教育実行を試みられ、後のルウム戦役で単機で制宙圏をすりぬけ、艦艇に肉薄これを撃沈するパイロットをジオン軍に複数もたらした。
このガイアプログラムの教導大隊への採用は、またガイア本人に自分とほぼ同等の技量を持つ部下をもたらし、彼の小隊は黒い3連星の異名を持つエース部隊として公報にもしばしば登場するようになる。彼らは伝統的な相互掩護による制宙圏制圧をせずに3機一直線に直接艦船を急襲、MS3機分の火力をまとめた攻撃に耐えうる艦船はなかった。
しかしながら、ガイアの戦闘プログラムは多くの兵士にはこなせず、会敵時に戦闘可能相対速度を越えてしまい戦場を素通りしてしまったり、艦船の砲撃域で戦闘可能相対速度に減速してしまうなど、技量がガイアに劣るパイロットには使用できない戦術であった。
これに対しガイアの小隊はMSの性能向上に伴い上がり続ける戦闘初速にもかかわらず、ガイアプログラムに従って戦闘を実行しうる能力を保有し、戦果をあげ続けた。ガイア小隊は艦船の砲撃域では戦闘可能相対速度以上で接近しながら、敵艦に会敵したときにはゼロ相対速度まで減速することも出来たという。ガイア小隊の最大の戦果である、ルウム戦役でレビルを捕虜としたことも彼らの技量ゆえんであった。
しかしながらガイアは対MS戦闘で戦果をあげることはなかった。ガイアの初の(そして最後の)MS戦闘は地上で行なわれたが、彼はここでもガイアプログラムを使用し、そして戦死する。
もとより宇宙空間での対艦戦闘を前提に組まれたガイアプログラムを初期会敵速度が遅い地上戦で、しかも砲撃死角が小さい対MS戦で使用するのは無理であった。戦闘可能速度以上で会敵し、砲撃死角ですべての使用可能火力をまとめて一気に撃沈するという(いわば単純な)ガイアプログラムの前提条件が成立しなかったのだ。ではなぜガイアは戦術選択の誤認をしたのか。ガイアの誤認は彼が対MS戦初出撃により不慣れであったことだけが原因ではない。
優れた戦術家であったガイアに地上でガイアプログラムを使用させたのは新型のホバー駆動MSの速度がガイアプログラムを使用するに充分に早いと誤認させたことも大きな要因であった。もしガイアに与えられたMSが従来型であれば、彼のことゆえ他の有効な地上MS戦闘の戦術をあみだしたかもしれない。
なお、艦艇の護衛機が戦闘機からMSに変化し、対艦戦闘に先立ってMS戦闘が行なわれるようになってからジオンの教本からガイアプログラムは削除されたが、1年戦争後期に於いても対MS戦闘を行なわない通商破壊班によって使用されることもあった。しかしそれもJライデンら一部のパイロットのみにしか使用できず、ついには一度も戦術理論の主流となることはなかった。