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「教育」と「学習」

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「教育」と「学習」とは、近い言葉だと思われているので、ふだん、その違いがあんまり意識されることはありません。

しかし、その違いは、結構明白です。
いろいろな定義があるでしょうが、「教育とは、第三者が、意図的に他者の学習を組織化すること」です。これは教育学者の広田先生の定義です。
最近の学習環境論やアーキテクチャー論に引き寄せて定義づけを変更するならば、「教育とは、意図的に、学習者が気づかぬように、彼の学習を統御する環境・アーキテクチャをつくること」という風にいえるのかもしれません。

いずれにせよ、どのように定義を行おうとも、教育の言説からは「第三者のもつ意図」「第三者から他者への働きかけ」は消えません。教育とは、他者によって行われる「社会化」のひとつです。



一方、「学習」とは、これもいろいろな定義がありますが、最も広く捉えるならば、「経験により比較的永続的な認知・行動・情動の変化が生まれること」といわれています。
この変化をもたらすドライバになるのは「自己」でも可能です。ということは、その場合には、「第三者のもつ意図」や「他者への働きかけ」は消えることが可能です。
自ら自己の力で、認知・行動に変化をもたらすこと - それは「自己調整学習」というラベルで呼ばれるのかもしれません。もちろん、これが「他者」によってもたらされるのならば、その現象は「教育」として理解されることになります。

僕個の見解としては、実際には、「教育」と「学習」を分けて考え、どちらかの立ち位置に完全に立つことは不可能です。によっては、「教育は不要なもので、学習が望ましいもの」という主張をなさる方がいるかもしれません。しかし、僕は、そういう単純な議論には与しません。
マクロに見た場合、間の生存、あるいは、間の社会システムを永続的に支えようとする制度・社会化のひとつが「教育」です。また、この教育という制度をもって、は、自ら学ぶ「学習者」になりえます。もちろん、教育の姿が今のままでよいことはありえません。それは時代によって変化することが重要です。

http://www.nakahara-lab.net/blog/2009/11/post_1605.html

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