主体の履歴
まずは意識の形式である。あらゆる個別の要求や関心や信念を取り去った後にそれでも残るもの、つまり個性や特定性を作り出しているその形式の内容、とは別物だ。
この主体は民主主義における市民である。民主主義は具体的で個別的な人間に合わせて作られたのではなく、形式的で冷酷無比な抽象化した市民に合わせて作られたものである。民主主義という観念そのものの中には、具体的な内容の充実とか共同体の結束の真性とか関係ないのであって、あくまで抽象的な個人同士の形式的繋がりなのである。その定義からしてあらゆる民主主義体制下の市民は互いに平等である。人種、ジェンダー、セクシュアリティ、宗教、財産、テーブルマナー、ベッドでの習慣などは関係がないのであって、そうした特異な要素のあとに残るものなのである。そしてこれこそがジジェクが主体と呼ぶものであって、市民が他の市民と平等に同じであるのはこの点においてなのである。
比喩的に言えば、「世界の見方」であり「世界がそこから見られる場所」というように主体のことを表現してもいいだろう。すなわち主体は世界に対して距離を保たない限り存在しないという意味である。自分の網膜で見ている限り網膜そのものを見ることができないのと同様に、世界の一部である限り世界を見ることはできないのである。主体が世界を見ることができるということは、主体は世界から身を引き離した世界の断片だということだ。主体が客観的ではなく、主観的なのはこのためだ。(ちょっと写しつつよくわからん)主体はある個別の個性をもつ世界の見方なのである。ジジェクは自身がスロヴェニア文化やラカン派などのシステムから疎外された続けた結果このような思想を練り上げて来た。