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2つのコギト解釈

コギト的主体をしりぞけて、「脱中心化された主体」を主張する。この主体はその中心を自分の外部=イデオロギーや無意識に依拠する。主体の中の個人の現れは、せいぜい操り人形が糸の先でどう動くかといったレベルの問題だ。コギトの主観を否定し、大きく主体の客観にふれた主体解釈といえる。

デカルト的懐疑の方法論をほぼそのまま採用して主体を「自然から文化へ」移行する存在として捉える。自然と同一化した主体は、自分と世界を切断する方法的懐疑によってヘーゲルのいう「世界の闇夜」を迎える。ここに主体の空白が生まれ、そこから文化は生まれる。自然から文化、その橋渡しをする「消えゆく媒介者」それが主体である。ラカン的にいえば「現実界」を追い払い「象徴界」=「象徴秩序」を作り上げる、その媒介者こそが主体であり、それは否定的で消えゆく存在だということだ。

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