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下流志向

消費主体として確立→学校教育=労働主体育成プログラムに無理矢理参加されられる(客体化される)ことへの嫌悪→よってこのプログラムに消費主体として参加する→消費主体らしい「等価交換」の原則→「売り手=学校」の「売り物=教育サービス」に対して、消費主体はそれを買い取る「貨幣」として「不快」を対置する→しかし、等価交換というか、市場原理は「無時間」を前提としているし、それ以外を想定できない→モデルは破綻する

補足「不快という貨幣」
例えば授業が始まる前はダラっとしている。「お前らの授業に全く期待していない」という記号的身体表現。無関心によって、「不快」という貨幣を払う気がないことをアピールし、商品の値段=必要とする不快さを減らそうとする。(教師が媚びてきて面白くなるとかかな)
例えばちょっぴりだけ価値がある授業に対しては、10分間だけ集中し(不快をちょっぴり支払い)残りは遊ぶ(値切るために遊ばなければならない)

(諏訪哲二の「オレ様化する子どもたち」という本にその論旨の多くを拠っているっぽいのでそちらを読む必要がありそうだということを前提にしつつ。。)
学びからの逃走、労働からの逃走を考えるにあたり、最も根本的な概念が登場する。
それは、「労働主体」の確立の以前に、「消費主体」として我々が「自立」するようになったということだ。(近代はフーコーをあげるまでもなく我々を労働主体として確立させようとし続けてきたが、それより「以前に」という意味だ。つまり就学以前)
具体例としては、社会に一歩踏み出すことを考えたときに、昔ならば家でお手伝いをして(労働して)初めて社会に承認されるというのがあったのに対し、今は両親や祖父母にもらった金を使って買い物をすることが先行しているということを考えればわかりやすい。僕個人的には「アルバイトして色々わかった」とか言っているし、まさにそうだ。労働についての驚きが後にきていて、それ以前に消費主体として確立してしまったのだろう。


でまあ消費主体である我々はどのように学びから逃走していくか、その質について本とは逆に抽象的な部分から続けて書いてゆく。抽象具体抽象具体と進める。
まずは「等価交換」の概念だ。
先ほど説明したように、就学以前から既に「消費主体」たる我々は、学校教育=労働主体を育成するプログラムに客体として参加することを嫌悪する。そんな我々はこのプログラムにむしろ「消費主体」として参加する。するとどうなるか?
消費主体にとって重要なのが、「等価交換」なのである。例えばパソコンを買う時、我々はスペックを点検し各種保証を点検し、その商品について熟知してからものを買う。値段に対してふさわしいものを手に入れたいからだ。
消費主体はこの原理を教育においても適用する。内田樹によれば、これこそが学力低下、ひいては教育の低下、そしてなんとニート問題の原因にもなっているという。どういうことだろうか。
教育は消費主体にとって逆説的である。「教育から受益する人間は自分がどのような利益を得ているのかを教育がある程度進行するまで場合によっては教育課程が終了するまで言うことができない」

次に、もう少し具体的にこの等価交換が教育においてはどのようになされるか。すなわち教育主体風に言って「売り手」である「学校」が売っている「教育サービス」に対して「買い手」である「我々=消費主体」が何をもって「貨幣」とし、それらを買うのかということだ。
それは「不快」である。

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