枝を伐って根を枯らすの最新の日記
時雨らんだような薄暗さのなか
庸三は魂を噛いちぎられたもののように、うっとりと火鉢をかかえて卓の前にいた。葉子はお昼少しすぎに床を離れて風呂へ入ると、次ぎの間の鏡台にすわって、髪や顔を直してから、ちょっと庸三の子供たちを見て来るといって、接吻をも忘れずに裏木戸から幌がけの俥で帰って行ったのであった。庸三は乾ききった心と衰えはてた肉体にはとても盛りきれないような青春を、今初めて感じたのだったが、そうしてぼんやり意識を失ったもののように、昨夜一夜のことを考えていると、今まで冬眠に入っていた情熱が一時に呼び覚まされて来るのを感じた――それに堪えきれない寂しさが、彼を悲痛な悶えに追いこむのであった。――透き徹るような皮膚をしたしなやかな彼女の手、赤い花片に似た薄い受け唇、黒ダイヤのような美しい目と長い睫毛、それに頬から口元へかけての曲線の悩ましい媚、それらがすべて彼の干からびた血管に爛れこむと同時に、若い彼女の魂がすっかり彼の心に喰い入ってしまうのであった。庸三は不幸な長い自身の生涯を呪いさえするのであった。
するうち部屋が薄暗くなって来た。電燈のスウィッチを捻ろうとおもって、ふと目を挙げると球が紅い手巾に包まれてあった。瞬間庸三は心臓がどきりとした。やがて卓のうえに立ってそれを釈いた。いつのまにそんなことをしたのか、少しも知らなかった。庸三は卓をおりてさもしそうに手巾を鼻でかいでみた。昨夜葉子はこの恋愛を、何か感激的な大したロオマンスへの彼の飛躍のように言うのだったが、そう言われても仕方がなかった。庸三は次第に彼女の帰って来るのが待遠しくなって来た。
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引き返すことができなかった
支度しに宿へ帰った彼女に約束した時間どおりに、定めのプラットホオムへ行ってみると、葉子の姿が見えないので、彼は淡い失望を感じながらしばらく待ってみた。十分ばかり経った。彼は外へ出て公衆電話をかけてみた。女中が出て来たが、葉子を出すように頼むと、三四分たってからようやくのことで彼女が出て来た。いつでも私が入用な時にと言い言いした彼女の意味と思い合わせて、今の場合事によると一色がやって来でもしたのか、それとも薬が利きすぎたのに恐れを抱いて当惑しているのか、いずれにしてもそこは庸三に思案の余地が十分あるはずなのに、仮装の登場人物はすでに引込みがつかなかった。間もなく新調の外套を着た葉子がせかせかとプラットホオムへ降りて来た。
「すみません。随分お待ちになったでしょう。」
彼女は電話のかかった時、あいにくトイレットにいたのだと弁解したのだったが、そこへがら空きの電車が入って来たので、急いで飛び乗った。
電車をおりると、駅から自動車で町の高台のあるコッテイジ風のホテルへ着いたが、部屋があるかないかを聞いている庸三が、合図をするまで出て来なかったことも、ちょっと気がかりであったが、洋館の長い廊下を右に折れて少し行くと、そこから石段をおりて、暗い庭の飛石伝いに、ボオイの案内で縁側から日本間へ上がって、やっと落ち着いたのは、二階の八畳であった。寒さを恐れる彼に、ボオイは電気ヒイタアのスウィッチを捻ってくれた。そして風呂で温まってから、大きな紫檀の卓に向かって、一杯だけ取った葡萄酒のコップに唇をつけるころには、葉子の顔も次第に幸福そうに輝いて、鉄道の敷けない前、廻船問屋で栄えていた故郷の家の屋造りや、庸三の故郷を聯想させるような雪のしんしんと降りつもる冬の静かな夜深の浪の音や、世界の果てかとおもう北の荒海に、幻のような灰色の鴎が飛んで、暗鬱な空に日の目を見ない長い冬のあいだの楽しい炬燵の団欒や――ちょっとした部屋の模様や庭のたたずまいにも、何か神秘めいた陰影を塗り立てて、そんなことを話すのであった。
武蔵野市 歯科
別に驚く様子もなく
裏切るなら俺一人で裏切りたいと思っていたからなのだ。いずれにしてもお前の事は狭山という人によく頼んでおくから、安心して日本に居れ。J・I・Cが総がかりで来ても、又は樫尾の智恵を百倍にしても、あの人の一睨みには敵わない。お前は狭山さんを知っているだろう」
と申しましたから、お顔だけは新聞紙上でよく存じている旨を答えましたところ、
「それならばいよいよ好都合だ。俺の事は決して心配しなくともよい。現に一昨日の晩も、朝鮮人らしい奴が一人尾行て来たから、有楽町から高架線の横へ引っぱり込んで、汽車が大きな音を立てて来るのを待って振り返りざま、咽喉元を狙って一発放したら、ガードの下の空地に走り込んでぶち倒れた。しかし其奴は死ななかったらしく、今でも図々しく俺を追いまわしているが、そんな奴を恐れる俺じゃない。唯気にかかるのは非国民の名だ。だから、お前は伜の事は思い切っても、俺と一緒に非国民の汚名を受けないようにせよ。今夜でも宜しいから狭山さんの処へ行って事情を打明けて保護方をお願いせよ。狭山さんは剣橋大学の応用化学を出た人で、J・I・Cの団長W・ゴンクールの先輩に当る人だ。卒業生の名簿を御覧になればわかる。……この事が狭山さんに洩れた事がわかったらJ・I・Cで大警戒をするからそのつもりで極秘密にして行け」
と申しまして強いて妾を去らせました。
しかし妾は尚も夫の身の上の程を心許なく存じましたので、昨夜遅く、共々に狭山様の処にお伺い致します決心で、人知れずステーション・ホテルに訊ねて参りまして、ボーイに二十円を与えて案内させ、夫の室に参り、内側から鍵をかけまして、気永く自殺を諫めにかかりましたけれども、夫はやはり相手になりませず、泥靴のまま寝台の上に横たわりまして、只管に眠るばかりでございました。
幡ヶ谷 歯科
J・I・Cの真相
どのような恐ろしい、残忍非道なものでございましたかは貴方様のお察しに任せます。いずれに致しましても、前に申上げました表面的な主義主張とは全くうらはら[#「うらはら」に傍点]の実情でございまして、詳しくお話し申上げたいのは山々でございますが、あまり長く相成りますから併せて略させて頂きます。
妾はその話の一々に就きまして思い当る事ばかりでございましたのみならず、永年尋ね求めておりました伜の嬢次が、紐育の郵便局に奉職致しておりますことが最近J・I・Cに判明致しまして、人知れず人質同様の監視を受けております状態で、妾の素振によりましては、その生命を代償として、妾を威嚇致します準備が整っております旨を承わりました妾は、余りの恐ろしさに魂も身に添わず、病気のように相成りましてこの教会に引返し、樫尾に扶けられて逃亡の準備を致しました後、暫くは寝台の上に打ちたおれておりました程でございました。
とは申せ、そう致しますうちに尚よく考えまわしてみますと、妾はまだJ・I・Cの内情を耳に致しましたばかりで、その恐ろしい仕事の実際を眼に見た訳ではございませぬ。嬢次の事とても同様でございまして、妾が親しく会ってみました上でなければ、真偽の程が確かとは申されないのでございます。ことに樫尾という人間がどうしてこのように妾の世話ばかり焼きましてJ・I・Cから裏切らせようと致しますのか、その理由が、まだハッキリと解った訳でもございませぬのに、みすみす眼の前の夫を見殺しに致して、妾一人何しに海外へ立ち去る事が出来ましょう。ですからその夜に入りまして、介抱しておりました樫尾が立ち去るのを待ちかねまして、くるめく心を取り直しつつ、カフェー・ユートピアに夫を呼び出し、樫尾の物語を打ち明けまして、J・I・Cの真相を妾に洩らさなかった夫の無情を怨みました。
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決心を持っている
恐ろしさと悲しさの遣る瀬ないままに、毎日のように夫のあとをつけまわしまして、度々面会致しては言葉を尽して諫め訓しましたのでございますが、夫は只がぶがぶと酒を飲みますばかりで相手になりませず、妾の恐れと悲しみが弥増るばかりでございました折柄、昨十二日の午前中、小包郵便で前記の暗号入りの聖書が到着致しました。のみならず、間もなくその聖書を送りました本人の樫尾自身が妾の出勤先の外務省に飛んで参りまして、団員の一人である朝鮮人留学生、朴友石の密告によりまして、私に対する死刑の宣告が、只今米国本部より樫尾の手許まで到着致した旨を告げ知らせました。そうして尚その上に――鮮人朴友石は一種のコカイン中毒から来た殺人淫楽者で、色々な巧妙な手段を以て不思議の殺人を行い、今日迄度々警察を悩まして来た白徒で、殊に異性の私を殺し得る機会を得ようと兼ねてから付け狙っていた恐るべき変態恋愛の半狂人である。なれども樫尾自身は日本政府の御命令で、あくまでも、J・I・Cに踏み止まるべき重大なる任務を持っているために、朴の行動に反対する事が出来ない。却ってその計画に賛成して、色々と指導を与えておいた位だから、私の運命は風前の燈――と申すような恐ろしい事実を申し聞かせ――後とも云わず即刻、海外に逃れるよう、準備を整えよ――と言葉をつくして諫めました。
けれどもその時に妾はなおも夫の事を気づかいまして、躊躇致しましたところ、樫尾は遂に、もどかしさに堪えかねましたものか――左程に疑わるるならば、かく申す樫尾の身分と、今日までに探り得ましたJ・I・Cの真相を打ち明けましょう。序に貴方の御子息の行方もお話しまして、妾が何故に斯様に一生懸命になって貴女の御一身の事を心配致しますかという、その理由を説明しましょう――と申しまして、妾に病気欠勤をさせて自身に運転して来ました自動車に乗せ、多摩川附近までドライヴを致しました。
神保町 歯科