時雨らんだような薄暗さのなか
庸三は魂を噛いちぎられたもののように、うっとりと火鉢をかかえて卓の前にいた。葉子はお昼少しすぎに床を離れて風呂へ入ると、次ぎの間の鏡台にすわって、髪や顔を直してから、ちょっと庸三の子供たちを見て来るといって、接吻をも忘れずに裏木戸から幌がけの俥で帰って行ったのであった。庸三は乾ききった心と衰えはてた肉体にはとても盛りきれないような青春を、今初めて感じたのだったが、そうしてぼんやり意識を失ったもののように、昨夜一夜のことを考えていると、今まで冬眠に入っていた情熱が一時に呼び覚まされて来るのを感じた――それに堪えきれない寂しさが、彼を悲痛な悶えに追いこむのであった。――透き徹るような皮膚をしたしなやかな彼女の手、赤い花片に似た薄い受け唇、黒ダイヤのような美しい目と長い睫毛、それに頬から口元へかけての曲線の悩ましい媚、それらがすべて彼の干からびた血管に爛れこむと同時に、若い彼女の魂がすっかり彼の心に喰い入ってしまうのであった。庸三は不幸な長い自身の生涯を呪いさえするのであった。
するうち部屋が薄暗くなって来た。電燈のスウィッチを捻ろうとおもって、ふと目を挙げると球が紅い手巾に包まれてあった。瞬間庸三は心臓がどきりとした。やがて卓のうえに立ってそれを釈いた。いつのまにそんなことをしたのか、少しも知らなかった。庸三は卓をおりてさもしそうに手巾を鼻でかいでみた。昨夜葉子はこの恋愛を、何か感激的な大したロオマンスへの彼の飛躍のように言うのだったが、そう言われても仕方がなかった。庸三は次第に彼女の帰って来るのが待遠しくなって来た。
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