決心を持っている
恐ろしさと悲しさの遣る瀬ないままに、毎日のように夫のあとをつけまわしまして、度々面会致しては言葉を尽して諫め訓しましたのでございますが、夫は只がぶがぶと酒を飲みますばかりで相手になりませず、妾の恐れと悲しみが弥増るばかりでございました折柄、昨十二日の午前中、小包郵便で前記の暗号入りの聖書が到着致しました。のみならず、間もなくその聖書を送りました本人の樫尾自身が妾の出勤先の外務省に飛んで参りまして、団員の一人である朝鮮人留学生、朴友石の密告によりまして、私に対する死刑の宣告が、只今米国本部より樫尾の手許まで到着致した旨を告げ知らせました。そうして尚その上に――鮮人朴友石は一種のコカイン中毒から来た殺人淫楽者で、色々な巧妙な手段を以て不思議の殺人を行い、今日迄度々警察を悩まして来た白徒で、殊に異性の私を殺し得る機会を得ようと兼ねてから付け狙っていた恐るべき変態恋愛の半狂人である。なれども樫尾自身は日本政府の御命令で、あくまでも、J・I・Cに踏み止まるべき重大なる任務を持っているために、朴の行動に反対する事が出来ない。却ってその計画に賛成して、色々と指導を与えておいた位だから、私の運命は風前の燈――と申すような恐ろしい事実を申し聞かせ――後とも云わず即刻、海外に逃れるよう、準備を整えよ――と言葉をつくして諫めました。
けれどもその時に妾はなおも夫の事を気づかいまして、躊躇致しましたところ、樫尾は遂に、もどかしさに堪えかねましたものか――左程に疑わるるならば、かく申す樫尾の身分と、今日までに探り得ましたJ・I・Cの真相を打ち明けましょう。序に貴方の御子息の行方もお話しまして、妾が何故に斯様に一生懸命になって貴女の御一身の事を心配致しますかという、その理由を説明しましょう――と申しまして、妾に病気欠勤をさせて自身に運転して来ました自動車に乗せ、多摩川附近までドライヴを致しました。
神保町 歯科
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