蝉の声
道は真っ直ぐで、あたりに人のいる気配はない。バスは市役所、市民ホール、商工会議所、教育委員会の建物などが並ぶ町の中心地を移動している。このあたりは大きな建物が多く、市民ホールは中でもひときわ新しい。新駅の完成とほとんど同じ時期に、鉄筋コンクリートの地肌もそのままに、壁には大胆な菱形の窓を組み合わせ、地面に接する入口前がピロティとなって大きな車寄せを兼ねる今の建物に建て替わった。
「何、見てる?」
弓子の声が僕の身体に伝わる。
「何、考えてる? ボンヤリしてると、町は逃げてしまうのよ。町は動いてる。しっかりつかまえていないと放り出されるよ」
弓子はかすかに身体を捩り、ジーンズのポケットを探って紙にくるんだものを出すと、その紙をはがし、中身を口に入れる。弓子が口を動かすと、固いアメが弓子の歯に当たってかすかな音を立てる。その動きと響きが僕の上半身に伝わり、その繰り返しが僕の心と身体を揺らせる。
バスは旧市街に入る。
細い路地が入り組み、木造のしもたや風の家が低い軒を寄せ合うようにして並んでいる。このあたりのどこかにオサムがよく出入りしているレーシング・カーのサーキットを開いている店があるはずで、僕も一度だけオサムと一緒に行ったはずなのだけれど、暗いのと、位置の高いバスの座席から見下ろしているのとで、方向感覚がなくなっている。バスも、ふたまたに別れたり、奇妙な形の三叉路になったり、行き止まりになりそうな古くて狭い道を、走りにくそうに進んでいく。ふと、見覚えのある牛乳屋の前を通る。店先の、建て付けの悪そうなガラス戸に左翼政党のポスターがびっしりと貼り付けてあって、中が見えない。その政党のこの町の支部が置かれている所だということを、僕も聞いたことがある。それもその政党の、急進的な分派だということを。
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