下宿へ帰る
笹村はある雑誌から頼まれた戦争小説などに筆を染めていた。その雑誌には深山も関係していた。笹村は深山の心持で、自分の方へ出向いて来たその記者から、時々深山のことを洩れ聞いた。
筆を執っている笹村は、時々自分の前途を悲観した。M先生の歿後、思いがけなく自然に地位の押し進められていることは、自分の才分に自信のない笹村にとって、むしろ不安を感じた。
「君は観戦記者として、軍艦に乗るって話だが、そうかね。」
谷中の友人がある日、笹村の顔を見ると訊き出した。
「けれど、それは子供のない時のことだよ。危険がないと言ったって、何しろ実戦だからね。」
友人はそう言って、笹村の意志を翻そうとした。
そんな仕事の不似合いなことは、笹村にもよく解っていた。夏の半ば過ぎに、お銀たちの近くのある静かな町で、手ごろな家が一軒見つかったころには、二人の心はまた新しい世帯の方へ嚮いていた。前の家を立ち退く時、話が急だったので、笹村は一緒に出るような家を借りる準備も出来なかった。仮に別居しているうちに、結婚を発表するに適当な時機を見つけようとも考えていた。
「ばかばかしい、こんなことをしていては、やはり駄目ですよ。いつまで経っても、道具一つ買うことも出来やしない。」
お銀は下宿の帳面を見ながら、時々呟いていた。
通りかかりに見つけたその家のことをお銀の口から聞くと、笹村は急いで見に行った。
家は人通りの少い崖と崖との中腹のような地面にあった。腐りかけた門のあたりは、二、三本繁った桐の枝葉が暗かったが、門内には鋪石など布かって、建物は往来からはかなり奥の方にあった。三方にある廃れた庭には、夏草が繁って、家も勝手の方は古い板戸が破れていたり、根太板が凹んでいたりした。けれど庭木の多い前庭に臨んだ部屋は、一区画離れたような建て方で、落着きがよかった。
変形性膝関節症
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